心身一如
伸ばす自分と、伸ばされる自分??
「さて、みなさん、いきますよ~~!」
と掛け声をかけて一斉に開脚して前屈をします。おおよそ皆さん、眉間にしわを寄せ、痛さを我慢し、頑張って前屈なさいます。
・・・さてさて、涼しい顔をして楽々前屈を楽しいんでいるように見える方もいれば、何者かと格闘しているように見える方もいます。この後者の方々は一体何と格闘していらっしゃるのでしょう?
おそらくこの方々はご自分の体と格闘しておられるのでしょうね・・・。しかし、ご自分の体と格闘しているのは誰でしょう?それもまたご自分ですよね。自分が自分と戦っておられる・・・一人の人の中に二人おられるみたいな様子ですね。二人も必要はなさそうなのですが。笑
これは一体どういうことでしょう。私の目にどう映るかと言えば、こうです。
ストレッチの主体はあくまでもそのグーグーっと伸びている実物、つまり皆さんの筋肉が中心的な存在として映っているのです。
どうやら頑張っている皆さんのお顔を拝見する限り、何か別に苦しんでいる人がいるように見え、どちらかというとそちらの苦しんでおられる人の方が中心で筋肉のほうが客体のような感じですよね。
でも、苦しんでいるのは人というよりも皆さんの「思い」や「感覚」というやつですよね。「思い」や「感覚」だから実体はないので、やっぱり皆さんは「筋肉側の一人っきり」ですよ。
心身一如
つまり、あくまでも実物は一つ一人でしかなく、二つ二人はないのですよ。一人しかいないのなら戦う相手はいないのに、でも、どうしても「痛くて苦しがっている自分」と「その筋肉」という風に別々な存在に感じてしまうんじゃないですか?
これはおかしいことですよねえ。痛くて頑張っている自分と、伸ばされている筋肉の側。
このポイントは実は坐禅の奥義に通じる入口ともなるのですが、真向法体操を工夫することで割と楽にその入口に辿りつくことが出来るとクラケンは思うのです。
難しい言葉でいえば「心身一如」に至る道です。
本来、思いと実体がバラバラになっていることは健全とはいえません。ストレッチにより身体の改善を図る際、そのプロセスがそのまま心となっている状態が健全です。
心が身体を対象とみなし、しかも心がその身体の痛みを迫りくる危機のようなものとして見ることは実に実におかしなことですよ。
ストレッチ効果による正しい身体の痛みは、身体改善のシグナルです。身心がそのように一致して認識するようなエクササイズを進めていきましょう。