禅はシンプル、文化も国籍も年齢も越えて
シンプルということ
ハワイの禅堂での体験から、禅がどれほどよく「物事のシンプルさ」ということを表現出来るのかの一端を知ることが出来ましたので、その事を少しお伝えしておきます。
基本的に禅堂と言うところは無言で過ごす場所です。言葉は坐禅修行に関する必要最小限しか使われず、後は黙々と無言で修行が進んで行きます。
私も最初はこれには戸惑いましたが、時と共に、実は少ない言葉で事足りるほど坐禅修行の中身はシンプルであることがわかってきました。
禅堂に慣れるまでは、なぜか多くの説明があるほうが助かるというふうに感じるのですが、実はそれは自分の頭の中で色々と多くの想像を巡らせ、多くの考えを持ってしまっているために、それを整理する上で他人の説明を必要としているだけで、もし自分の頭をからっぽにしてその場に臨んだのならば、禅堂での行いなどは実に実にシンプルこの上ないものなのです。
禅堂でなすべきことが複雑なのではなく、自分の頭の中で膨らませた想像が複雑なだけなのです。
今回、ハワイの禅堂での禅会に参加させてもらう上で、ただ到着の時刻を打合せたり、他1~2点確認を行っただけで、その他の事は何も打合せをしていませんでした。それにも関わらず万事問題なく粛々と行われた事で、あらためて禅のシンプルさを痛感したのでした。
禅はシンプルです。禅堂での行事もシンプルこの上ありません。それは文化も国籍も年齢も越えてしまうほどシンプルです。それゆえに、個々人が抱えた複雑さが浮き彫りになるといえます。
もしも、私の語るこの内容に関心を持たれた方があるならば、是非一度坐禅会に参加されることをおススメします。何もお寺の本格的な坐禅会に参加する必要はありません。一人でも二人でも、5分でも10分でも構いません。一度試してご覧になると、私の伝える心がわかって頂けると思います。
ただこの上ないシンプルさとはどういうものか、ご自分がいかにシンプルからは遠く隔てられているかを知るだけでも、非常に価値あるものといえるでしょう。